埋もれる者たち
ガッサーン・ハルワーニ『消された存在、__立ち上る不在』
米倉伸
行方不明者たちに、死は訪れるのであろうか。
30年以上前にレバノンで勃発した内戦のため、レバノンでは多くの行方不明者が出た、と本作の冒頭付近で背景が説明される。レバノンでの「行方不明者」は、その生死や安否が不明である限り、戸籍上は生存し続けるという。
あるポスターが繰り返し映される。夥しい数の行方不明者たちの顔写真が整然と並び、真ん中に大きく“MISSING”と書かれている。その数の多さから写真の一枚一枚は切手ほどの小ささとなり、もはや遠目からの個人の判別は困難を極め、それはさながら「模様」――映画の中で使用される言葉を借りるなら「市松模様」――と形容した方が腑に落ちるほどである。
試しにガッサーン・ハルワーニ監督がその「市松模様」から一枚の写真を切り抜き、それが誰であるかと試しに尋ねてみても、誰もその問いに答えられない。しかし、その顔写真がポスターの一部に戻ると、即座にこう答える、「“彼ら”は行方不明者である」と。その瞬間に彼ら「行方不明者」は「個」を喪失してしまうのだ。
あまりにも大きな悲劇は、むしろその被害の甚大さゆえにしばしば当事者にとってさえ「非現実的なもの」となり、人々の関心を奪っていくのかもしれない。それを証明するかのように、街角に張られた件のポスターは、徐々に別のポスターや広告などに上塗りされ、埋没し、人目に触れない不可視の領域に消えていく。
三十年余りに渡って形成され、もはや地層とも言える程に積み重なったそれらの張り紙を掘り起こし、再び「行方不明者」(の「個」=写真)を発見しようとする企ては想像するだに途方もない。具体的には、監督がそのように積み重なった張り紙の層をカッターで「掘り進める」作業が延々と映し出されるのだが、そこで費やされる時間の長さに、もうこの作業の終わりは来ないのではないかとすら思えてくる。
レバノンの街では、時折、集団墓地が出土するという。しかし、その墓地から上がった遺体は、公人たちからの埋め直し指示により隠蔽され、それが誰であるかといった情報が特定されることはない。監督がポスターを掘り起こす作業は、本作のキャメラでは撮影されることが無く、ただテレビやラジオの報道などを介して伝えられる集団墓地の挿話への対応、あるいは抵抗ではないかと。
執拗な作業の様がクローズアップで映され、ポスターの顔や情報がスクリーン上に克明に可視化されるとき、彼らは「行方不明者」という「群」から離脱し、名前を再び与えられた「個人」となる。
埋め直しにより不可視化された彼らの存在は、その瞬間に「不在者」としての可視化を果たす。「行方不明者」の生死が不明である限り、今後彼らに何かしらの形での死(あるいは生)が降りかかるかもしれない。この映画が時と共に不可視(invisible)になってしまわないことを切に願う。