『燃え上がる記者たち』監督:リントゥ・トーマス、スシュミト・ゴーシュ

浦野真理子

インドは最新のIT産業が発展する世界最大の民主主義国家だ。一方でカースト制度外に置かれ不可触民とされるダリトたちへの差別と暴力が根強くはびこっている。2002年、インド北部のウッタル・プラデーシュ州で、ダリト女性たちの手で新聞カバル・ラハリヤ(「ニュースの波」)が創刊された。映画の前半では、その勇気ある報道がデジタルメディアという武器を得て大きな反響を呼ぶサクセス・ストーリーが主に展開される。

本作のヒロインの一人である、20代の主任記者ミーラが、レイプ被害の取材をする場面から映画は始まる。小柄だがしっかりした体を色鮮やかなサリーで包み、仕事道具のカバンを肩に下げたミーラが、家畜の鳴く声が聞こえる土づくりの家へ入っていく。4人の男に何度もレイプされたと被害を訴える女性の横で、苦しそうに黙って座る夫。被害届を何度出しても警察は対応しない。女性の夫はラハリヤ紙が唯一の希望だと語る。行政に声を届けられるジャーナリズムは民主主義の源だとミーラは語る。

カバル・ラハリヤの記者たちは24人の若く小柄なダリト女性たち。取材のための移動には、乗り合いタクシー、バス、列車など公共の交通機関が使用される。事務所の会議では皆で車座になって床に座る。彼女たちは貧しい家庭で育ち、字が書けなかったり、家に電気が通っていないメンバーもいる。しかし、彼女たちは表情豊かでやる気に満ちている。これまで暴力と差別で声を封じられてきたダリト女性たちが、ジャーナリズムを通じて力を得、先にミーラが語る信念を胸に、報復を恐れることなく勇気ある取材を続ける。

もう一人の記者スニータは、2004年からマフィアが違法操業を行う採石場近くの村の出身だ。スニータはミーラとともに作業員生き埋めの取材に訪れる。地上にぽっかりと空いた巨大な採石場を行き来するトラックとそこで働く子どもをはるか崖上から俯瞰する映像を背景に、10歳のころからこの採石場で小石を運び働いていたとスニータは語る。当初はマフィアの報復を恐れる作業員たちだが、ペンの力で人を守りたいというスニータの熱意に動かされて取材に応じ始める。

カバル・ラハリヤ紙は動画による取材とインターネットを介した配信を進める戦略をとる。スニータが採石場の違法操業を動画で流すと100万回再生され大きな反響を呼ぶ。ダリトたちの置かれた医療、道、水路、電気などの悲惨な現状への訴えが、デジタルメディアを通じ人々と行政に届き、次々と改善が実現する様子はまるで奇跡のようだ。

一方で映画は、ミーラたち記者たちが日常で経験する厳しい差別と内なる因習をも描いている。ミーラの娘が通う学校の出席簿には「家柄」を記入する欄があり、同級生にダリトであることを知られ、からかわれている。自分が独身でいることで親が世間の厳しい目にさらされることを恐れたスニータは、結婚しカバル・ラハリヤを退職することを決めてしまう。社会を変えたいと願う記者たち自身も、社会の構造を背負って生きているのだ。

こうして、ダリト女性たちの果敢な挑戦を描く映画も、次第に不穏な空気に包まれ始める。後半に進むにつれて、デジタルメディアが暴力的な右翼ポピュリズムも拡大させる諸刃の剣であることが示されるのだ。2017年、ウッタル・プラデーシュ州の州議会選挙はイスラム教住民を敵視するヒンズー至上主義勢力の勝利で終わる。

長い交渉の末にミーラが実現させた、ヒンズー自警団のリーダーである青年へのインタビューが印象に残る。質素な土づくりの部屋でミーラは三脚を立て、言葉を選びながら青年に問いを発する。農家出身で父が生活苦で自殺した過去を持つ青年は、イスラム系住民を敵視し、狂気じみた目でうっとりと剣をなでる。抑制された描写でありながらも、どこか戦慄を誘う鮮烈な場面だ。

2019年、モディ首相が選挙で再選を果たし、ヒンズー至上主義の勢いが止まらない。ラーマ神をたたえる盛大なパレードで飛行機から花が撒かれる。ミーラはパレードに参加する政治家にインタビューし、宗教の政治利用ではないかと問いかけるが、取り巻きたちに退けられてしまう。インドでは2014年から40人もの記者が殺され、真実の報道は報復と隣り合わせだ。ダリト女性たちのデジタルメディアによる訴えに好意的に反応した大衆もポピュリズムの罠に陥り、デジタル空間で得た勝利は束の間で失われていくかのようだ。しかし、退職を決めたスニータがカバル・ラハリヤに復帰することを決めた事実がテロップで示されるなど、映画は最後まで希望を手放そうとしない。それこそが、この映画の製作者を突き動かす信念でもあるのだといわんばかりに、ジャーナリズムは社会を映し出す鏡であるべきだ、とのミーナの声が、熱狂的なパレードを背景に私たちの耳に届く。