この文章は、2022年1月17日〜2月6日に実施したオンライン配信イベント「Made in Japan YAMAGATA 1989-2021」に合わせて執筆されたエッセイを日本語訳したものです。
1989年の第1回目の山形国際ドキュメンタリー映画祭を紹介する型破りなPR映画として制作された小川プロダクションの『映画の都』(1991)は、この連載の始まりに取り上げるのにふさわしい作品だ。冷戦からポスト冷戦への転換がまさになされたこの時期を振り返ることで、この映画がアジア・ドキュメンタリー史のターニング・ポイントを記録していることがはっきりとわかるだろう。
小川紳介という偉大な監督に初めて会ったのは、1988年のハワイ国際映画祭で私がインターンとして働いていたときのことだ。彼は自分のプロダクションの最後の大作である『1000年刻みの日時計 牧野村物語』(1986)を映画祭に出品していた。そこでの私の仕事のひとつは小川の付き添いで、上映会場を順番に案内し、機嫌うかがいをすることだった。それは問題なくこなすことができた。小川は、どこまでも前向きな熱っぽい人物ですぐに仲良くなれたのだ。彼の映画が大好きだった私は、彼のするいろいろな話に魅了された。後で知ったことだが、彼はクレジットカードを持っていないアメリカ人がいることが信じられず、私のことが気に入ったらしい。どうやら、お金がなかったおかげで私は彼から高ポイントがもらえたようだ。
彼は、数十年にわたる自分の実績をいろいろと話してくれたが、なかでも新しいプロジェクトである山形映画祭について最も興奮して語っていた。彼はどこに行くにも映画祭の作品応募用紙を持ち歩き、出会った映画人たちにそれを受け取らせていた。山形映画祭に対する彼の明るい熱意とそのときに私が得た第一印象とのあいだにギャップがあったことをありありと覚えている。カリスマ的な話術の持ち主なので、その言葉は実に魅力的に聞こえた。しかし、「ヤマガタで映画祭? ……ヤマガタってどこだ?」と思ったのは私だけはなかった。地図で確認するとそこが文化の中心地 東京から遠い場所であることを知り、正直言って、小川の壮大な構想に疑問を抱いていた。YIDFFが山形を世界的な地名にすっかりと変えることになるとは知るよしもなかったのである。
家に帰ってしばらくしてから、私は小川に連絡を取った。修士課程と博士課程のあいだにギャップイヤーをとって過ごすことを考えていた私は、もしかしたら小川を頼れば日本で自分が活動できる可能性が開けるかもしれないと期待したからだ。実は、小川が何らかのかたちで私を彼のプロダクションで働かせてくれることを望んでいたのだが、私の依頼のやり方はあまりに控えめだったので、はっきりとお願いするかたちにはならなった。だがうれしいことに彼はすぐに返事をくれて、思ってもみなかったがその数か月後には、山形国際ドキュメンタリー映画祭のプログラミング担当の面接を受けに日本に訪れることになっていた。私は、山形映画祭の運営を間近で眺めたとき、組織が有するあまり豊かとはいえない資源と壮大な野望とのあいだにはある隔たりがあると感じたものだった。しかし、私をプログラマーとして迎えたその映画祭は、アジアのドキュメンタリーを変えてしまったように、私の人生を変えたといっても過言ではない。映画祭の野望は実は現実的なものだったと後にわかった。それは後述するように、歴史的なタイミングと深く関係している。
私は1990年に山形映画祭のスタッフに加わり、小川プロダクションの近くにあるアパートで主に生活することになった。同居人は『映画の都』の監督 飯塚俊男。畳敷きの狭いワンルームだった。風呂場は物置になっていて、置かれた段ボール箱のなかには映画制作の残骸がぎっしり詰まっていた。だから毎日、入浴には飯塚とふたりで近くの銭湯に歩いて通うことになり、疲れを癒した帰りにコンビニでビールを買ってくる。1日の終わりに畳の上で酒を飲みつつ、語り合った。
飯塚は、『映画の都』の編集の真っ最中であった。編集は、すぐ近くの小川プロダクションの荻窪スタジオで行われていた。荻窪スタジオというと立派だが、実はどこにでもある日本風アパートを改造した急ごしらえのポスプロ用のスタジオである。台所はその前に立つのがやっとの大きさだ。奥の寝室には16ミリ編集室がある。そのあいだにあるスペースは映写ブースに改造され、質素な居間が試写室にかたちを変えていた。制作期間中は小川プロの編集作業を私は見せてもらい、夜になると飯塚は進捗のなさを報告してくれた。
飯塚は常に慎重に仕事をしていて、小川を批判しないように気を配っているのがわかった。この映画祭で撮影された膨大な映像のかたまりを前にして彼は悩んでいた。それを何とかかたちにしようとするたびに、小川よって崩し倒され、またやり直しになる。明らかに悔しい思いをしていた。試写室で小川が激しい口調で編集を批判したことは何度もあったと記憶している。監督の言葉は当時の私には早口すぎてよくわからなかったが、彼が落胆していることは間違いなかった。ある晩、飯塚から小川が「編集を手伝ってくれることになった」と知らされ、ついに作品は完成へと近づくことになった。制作が締めくくられようとするとき、字幕翻訳の依頼が私に舞い込んできた。最良の人選ではなかったが、私だとコストを安く抑えられたからだ。
ここで目撃したことはしばらく整理がつかなかったのだが、かなり後になって、小川はスタッフが自分の映画を監督しようとすると必ずこのような手口をとることを知った。師匠が弟子に一本立ちするチャンスを与えるという振る舞いは、伝統芸術と同様、映画にもあてはまるものだし、きっと小川はそのようにして主要なメンバーをサポートしなければならないと思っていたのだろう。しかし、そのような場面で小川はスタッフを酷評し、最終的にはポストプロダクションを牛耳ってしまうことが3度もあった。その最初は、助監督の福田克彦が『映画作りとむらへの道』(1973)を撮ったときで、結局福田は小川プロから離れることになり、飯塚が助監督に昇格した。その直後、もうひとりの助監督だった湯本希生が『どっこい!人間節 寿・自由労働者の街』(1975)を監督したときにもまた同じことが起こった。このとき小川があまりに湯本を酷評したために、湯本は小川プロを去りそのまま消息不明になってしまった。
だが粘り強い飯塚が、監督としてその後のキャリアを積み続けられたのは我々にとってよろこばしいことだった。完成した『映画の都』では、スタッフたちの集団的な努力によって実現した映画祭の第1回目開催と当時の様子が興味深く描かれている。この映画祭を何度も訪れたことのある人なら、そこに登場する多くの人びとや劇場、顔ぶれに見覚えがあるはずだ。当時から現在に至るまでをかたちづくっている土台の継続性には驚嘆すべきものがある。
この年は非常に特別な年でもあった。天安門事件とベルリンの壁崩壊を案じる不安が映画祭を覆っていたし、特筆すべきは、中国当局が審査員に予定していた田壮壮監督の来日を阻むできごとがあった(映画の重要なシークエンスとなっている)。小川がポーランドのアンジェイ・マレック・ドロンジェフスキ監督と社会主義の未来について激しく語り合うシーンが、その当時の光景を鮮明に映し出している。世界が新しいなにかのとばぐちに立って揺れ動いているとき、映画祭という空間は、将来の方向性について熱く語り合う場として機能していたのだ。いまひとつの時代の変化も目に飛びこんでくる。この映画は、ドキュメンタリーの原型を作りあげた先達のひとり ヨリス・イヴェンスの死によって幕を開けているのである。彼は新作の上映に立ち会う予定だった。残念ながら、マルセリーヌ・ロリダンはひとりで山形を訪問しなければならなかった。だがそこで彼女が発した言葉はこの映画と映画祭の方向性をはっきりと示すことになる。
私たちにとって最も重要だったのは、新しい映画の形式と方法を見つけることでした。古い方法で仕事をしたくはなかったのです。新しい形式を見つけるには、自分自身を解放しなければなりません。自由でなければならない。大胆でなければならない。映画のなかで自分を表現しなければならないのです。
これが、1989年の映画祭の精神である。日本は、1920年代に始まるドキュメンタリーの伝統があり、前衛とドキュメンタリーが定期的に対話するアジアで唯一の国だった。しかし、1980年代になると、ほとんどの人びとがノンフィクションを従来のテレビ番組と結び付けて考えるようになっていた。そんななか、山形映画祭は自由で大胆なありかたを追究し、ドキュメンタリーに対する観客の先入観を粉々にすることになった。
さらに重要なことは、1989年の山形国際ドキュメンタリー映画祭が、広義のアジア・ドキュメンタリーの転機となったことである。この地域のほとんどの国は、独裁政権や反リベラルな政府のもとで、表現の自由が得られない、あるいは危機にある状況にあった。さらに、16mmフィルムは非常に高価であったため、ドキュメンタリーを制作できたのは政府、大企業、テレビ局だけであった。だがちょうどその頃、独裁政権の崩壊が起こり、社会運動は新しい表現形態に目を向けだし、低予算で制作できるビデオというフォーマットが出現してくる。映画祭は、コンペティション部門にふさわしいアジア作品が1本しかなかったことにショックを受け(クリスティン・ロイドフィット、手塚義治監督の日本・イギリス合作『家族写真』[1989/YIDFF ’89 インターナショナル・コンペティション奨励賞])、アジア各地からインディペンデント映画作家や批評家を集め、第1回目のアジア・シンポジウムを開催することにした。アジアの制作者がその苦労や夢について語り合う模様が『映画の都』に収められている。シンポジウムの最後には、フィリピンの偉大な映画監督キドラット・タヒミックがマニフェストを作成し、集まった映画人たちがそれに署名をした。その文面の最後にはイヴェンスの新作映画が言及されている。
我々はアジアの映画作家としてここに宣言する。困難と解決とヴィジョンを分かち合うため、アジア人同士のネットワークを保つことに力をつくすことを。我々はここにアジアにおける自主製作のドキュメンタリーフィルムの改革の種を蒔きたいという願いを披露したい。我々はここに、明るい展望を持って、困難を克服するため努力し向上し、それを果たすことを固く決意する。そうすれば、このYIDFFのような未来の国際舞台で、アジアの作品の活躍が見られるであろう。我々はここに、独立したアジアのドキュメンタリー作家たちが生きていることを宣言する。そしていつの日か、それは風とともに舞い上がるであろう。
実際に、その通りのことが起こった。2年ごとに、アジアの映画人がどんどん山形にやってきて作品を上映したのだ。彼らは仲間となり、すぐに濃密なネットワークを構築していった。歴史を広くカバーした山形のレトロスペクティヴに行けば、日本や世界のドキュメンタリーの古典を見ることが可能になった。それは、YouTubeやホームビデオの時代以前には特に貴重なものであった。このようにして、山形はアジアの映画制作者のための活気に満ちた拠点となり、現在もその役割を担っているのである。
『映画の都』は、映画史におけるこのユニークな瞬間の貴重な記録である。飯塚俊男の長いキャリアにおける最初の作品であるが、これが小川プロの最後の作品となってしまった。残念なことに、小川はこの重要な国際イベントの誕生に貢献しながらも、その体は癌で深く蝕まれていた。彼は1991年の映画祭には参加できなかったけれども、多くのアジアの映画人たちが山形への行き帰りに病床を見舞っている。そうした映画人たちや後続の仲間たちが、2年に1度、映画の都 山形と自分の住処とのあいだを往復してきたのだ。そして、映画祭が続いてきたこの30年以上のあいだに、アジアのドキュメンタリーは成長し、風とともに舞い上がったのである。
(高橋恵 訳)
マーク・ノーネス
ミシガン大学アジア映画学教授。専門は日本映画、ドキュメンタリー、翻訳論。1990年代以降、YIDFFのプログラマーとして活躍し、映画も制作している。最近の著書、オープンアクセスの『Brushed in Light』では、書き文字と東アジア映画の密接な関係について論じている。
http://www-personal.umich.edu/~nornes
マーク博士の山形あれこれ:
http://www.yidff-live.info/tag/drmarkusyamagatamusings/
第2回『阿賀に生きる』監督:佐藤真/1992/YIDFF ’93 優秀賞
第3回『A』監督:森達也/1998/YIDFF ’99 ワールド・スペシャル・プログラム『A2』監督:森達也/2001/YIDFF 2001 特別賞、市民賞
第4回『丸八やたら漬 Komian』監督:佐藤広一/2021/YIDFF 2021 やまがたと映画
第5回『新しい神様』監督:土屋豊/1999/YIDFF ’99 アジア千波万波
最終回『うたうひと』監督:酒井耕、濱口竜介/2013/YIDFF 2013 スカパー! IDEHA賞