この文章は、2022年1月17日〜2月6日に実施したオンライン配信イベント「Made in Japan YAMAGATA 1989-2021」に合わせて執筆されたエッセイを日本語訳したものです。
山形国際ドキュメンタリー映画祭に行ったことがある人は、『丸八やたら漬 Komian』(2021)を見るべきだ。まだ山形に行ったことがない人は、この映画を見るべきだ。ということは、誰もが『丸八やたら漬 Komian』を見るべきだということだ!
本作は、山形市役所の近くで営業する漬物屋とその歴史、アジアのドキュメンタリー映画文化の中心地として果たしたその役割、そして悲しむべきその閉店について描いたドキュメンタリーである。1991年に初めて私が参加した映画祭は、信じられないほど刺激的だった。私は真珠湾攻撃50周年を記念した担当プログラムの準備で、昼も夜も忙しかった。朝から夜遅くまで、上映とシンポジウムを開催していた。そして、夜がふけるとようやくゆっくりとした時間が持てるようになった。しかし、ふたつの問題があった。ひとつは、山形は渋谷のような街とは違うので、店やレストランがくやしいほど早く閉まり始めてしまうこと。もうひとつは、その時間に開いている店ではメニューの値段がかなり高いということだ。特に、アジア諸国からやってきたインディペンデントの映画制作者にとっては、それがネックだった。
映画祭はこの点を問題視し、解決に乗り出した。次の映画祭に向けて、山形のスタッフは、あるアイデアを発表した。地元の漬物屋からの支援を得て、参加者たちが映画が終わった後に一緒にいられる場を提供するというのだ。これは素晴らしいアイデアで、すぐに山形国際ドキュメンタリー映画祭の特長のひとつとなり、やがてこの映画祭の心臓となり魂となった。
映画祭というものはヒエラルキーによって支配されていて、大きな映画祭になればなるほど、その内側に入り込むことは難しくなるものだ。私が初めて映画祭で職を得た1988年のハワイ国際映画祭で、そのことに気付かされた。当時、ハワイは最新のアジア映画を見に行く場所として知られていた。映画祭には、アジア各国から集まった学者やプログラマー、映画制作者が大勢ひしめいている。インターンとして私が担当したのは、大規模な資金調達業務の構築と管理で、それは映画祭の運営自体に欠かせないばかりか、一般観客の無料参加を可能とするものだった。
金を出せば出すほど有名なゲストが居並ぶ特別なイベントに参加できるという、映画祭のヒエラルキーを初めて私は知ることになった。オープニングナイトパーティーでそれは火を見るよりも明らかだった。ダイヤモンドヘッドの麓にあるジャック・ロードの邸宅のプールで、映画祭にやってきた作家たちが一番金持ちの寄付者たちと肩を並べるのである。映画祭のスローガンである「異世界との遭遇(When Strangers Meet)」は、私には少し不誠実なものに感じられた。なぜなら、あの華やかなパーティへのチケットを得るには、どれだけのレベルの額の寄付をするかが大きな鍵になっているからだ。
それから数年後、プログラマーとしてベルリン国際映画祭に行く機会があった。そのとき、パスの提示で上映は見られるが、それ以外の場所には簡単に通してもらえないことを知って衝撃を受けた。研究者としてはぜひ映画マーケットにも足を踏み入れたかったが、行くことができなかった。レセプションに招待されたのは1回だけで、それ以外のレセプションの話は耳に入ってこない。他の大きな映画祭と同様、魅惑的な中心地からの距離は、パスの色で決まるのだ。そして、もしパスを持っていなければ、映画祭はその人を単なるチケットの売り先として扱うのだ。
山形は違った。
その違いが最も顕著に表れていたのが、香味庵クラブである。毎晩10時にオープンするのだが、どの方面から向かっても、同じ目的地を目指す映画祭関係者と合流することになる。開場時間には、いつも小さな人だかりができていて、皆一緒になっておしゃべりをしながら待つ姿がある。開場すると、日本酒や缶ビールがつまった巨大な桶の前へとぞろぞろと入っていく。500円を支払えば感じのよいスタッフがお酒とおつまみを渡してくれる。1時間もしないうちに、会場は映画祭の参加者でいっぱいになる。
その先には、うっそうとした入り組んだ空間が拡がっている。丸八やたら漬は100年以上の歴史があり、その建造物は古いいくつもの建物が集合してひとつにつながってできているのだ。飲み物を受け取ると、細長い廊下を進むことになる。それにはとある攻略のゲームが強いられ、人と人との間を縫って歩かねばならず、知り合ったばかりの友人やら旧友やらが数メートル歩くたびに呼び止めてくるからなかなか前には進めない。右手には、机の置かれた大部屋。もっと先に進むと階段があって、脱いだ靴で一杯になった三和土の奥には大きな畳の部屋が続く。階段の左側は厨房で、多くのスタッフが忙しく調理をしている。
これのちょっと先には広めの空間があって、いくつか机が並べられている。この空間の装飾品が私のお気に入りだった。大きな木桶や年代物の農機具、そして古式ゆかしいスキー板などが飾られていて、そのなかには、私が子どもの頃にコロラドで滑っていた、昔のオーリンのマークIVもあった(偶然にも、山形とボルダーは姉妹都市で、これも私が山形を好きになった理由のひとつ)。この部屋の裏にはお手洗いがあり、さらに人びとが立ち話ができる秘密のコーナーもあった。
11時過ぎには、どこもかしこも世界各国からの参加者でいっぱいになった。スタッフが大きな鍋に山形の秋の味覚である芋煮を作ってくれる。ある人は一角を陣取り、またある人は会話相手をもとめて部屋から部屋へと回遊する。また、どこかのテーブルで注目を集めている人もいれば、座れる椅子を探してまわる仲間たちがいる。その光景は感動的であった。
しかし、香味庵が本当に特別だったのは、500円玉さえあれば誰でも参加できることだ。映画人、プログラマー、研究者、映画ファン、そして山形市民が、つまり映画祭そのものが、毎晩この伝統的な漬物工場に集結していた。もちろん、人間にヒエラルキーはつきものではあるが、映画祭は香味庵によってみんなが一緒にいられる一時の空間を作りだしていた。1日中映画を見て、夜通し香味庵クラブで映画について語り合うのだ。
よそ者同士が初めて出会い、関係を築く。こうして山形は、アジアのインディペンデントのアーティストやプロデューサーたちをつなぐ世界的な一大ネットワークの形成に貢献したのである。
残念なことではあるが、丸八やたら漬はパンデミックの犠牲者となった。2020年、創業して135年を経て、この漬物屋は閉店を迎えた。その美しい古い建物は信じられないことに新しい所有者によって取り壊され、マンションがそこに建つという。その建物が退屈なものになることは間違いない。映画祭のスタッフは2023年のために皆が集まれる新しいスペースを探していると聞いている。
佐藤広一監督のこの素敵な映画『丸八やたら漬 Komian』は、漬物工場と山形国際ドキュメンタリー映画祭のふたつを記念する作品である。そこでは山形の壮大な山々や食文化なども紹介されている。そう、これは誰もが見るべき映画なのだ!
(高橋恵 訳)
マーク・ノーネス
ミシガン大学アジア映画学教授。専門は日本映画、ドキュメンタリー、翻訳論。1990年代以降、YIDFFのプログラマーとして活躍し、映画も制作している。最近の著書、オープンアクセスの『Brushed in Light』では、書き文字と東アジア映画の密接な関係について論じている。
http://www-personal.umich.edu/~nornes
マーク博士の山形あれこれ:
http://www.yidff-live.info/tag/drmarkusyamagatamusings/
第1回『映画の都』監督:飯塚俊男/1991/ YIDFF ’91 特別招待
第2回『阿賀に生きる』監督:佐藤真/1992/YIDFF ’93 優秀賞
第3回『A』監督:森達也/1998/YIDFF ’99 ワールド・スペシャル・プログラム『A2』監督:森達也/2001/YIDFF 2001 特別賞、市民賞
第5回『新しい神様』監督:土屋豊/1999/YIDFF ’99 アジア千波万波
最終回『うたうひと』監督:酒井耕、濱口竜介/2013/YIDFF 2013 スカパー! IDEHA賞