みどころ
2015年に好評を博した企画「Double Shadows/二重の影」の第2弾。
前回は映画史の枠組みを検証する作品を多く上映したが、今回のプログラムでは、映画が人間や人生、その生き方がいかに影響し合うかというテーマを軸に作品を選出。世界的に映画保存の問題が注目されている今だからこそ、映画の保存や存続についてもう一度見つめ直す。
『革命の花― ヴェトナム・ローズの日記』(2017)では、途中で中断した別の映画監督の作品をフィリピンの若き作家ジョン・トレスが、当時のキャストを探し出し映画を完成させる。未完成の作品を別の作家が完成させるという異色の一作。
さらに、今回のプログラムではドキュメンタリーの世界の偉大な先駆者の追悼の意味合いも込めて、ジョナス・メカス『富士山への道すがら、わたしが見たものは…』(1996)、イェルヴァン・ジャニキアン、アンジェラ・リッチ・ルッキ『アンジェラの日記― 我ら二人の映画作家』(2018)、マルセリーヌ・ロリダン『ある夏の記録』(1961)を上映。『ある夏の記録』がフランスでリメイクされ、晩年のマルセリーヌ・ロリダンも出演する『ある夏のリメイク』(2016)も必見。彼らの軌跡を通して、現代にも通じる映画と私たちの生き方を考えたい。
映画ファンならば、そのタイトルに引かれる『マーロン・ブランドに会う』(1966)、『パウロ・ブランコに会いたい』(2008)など、このプログラムでしか見られない日本初公開作品を多数上映。第72回ロカルノ国際映画祭最優秀監督賞受賞し日本でも話題を集めたダミアン・マニヴェルの新作『イサドラの子どもたち』(2019)では、元コンテンポラリー・ダンサーである監督が満をじして制作した舞踏をテーマに描く、ドキュメンタリー映画か否か絶妙な構成で魅せる注目作。
特集に合わせて、ジョナス・メカス「フローズン・フィルム・フレームズ」と題し展示も開催。詳細はこちら:http://www.yidff.jp/2019/program/19p5.html
『富士山への道すがら、わたしが見たものは…』On My Way to Fujiyama, I Saw…
監督、撮影、編集:ジョナス・メカス/アメリカ/1996/25分
ジョナス・メカスが1983年と1991年に来日した際に、愛用のボレックス・カメラで撮影した日本。とりわけ、メカス日本日記の会が主催した「メカス1991年夏─ニューヨーク、リトアニア、帯広、山形、新宿」に参加するために8月に来日した際には、帯広を経由して山形を訪問し、『リトアニアへの旅の追憶』の上映、詩人の木村 夫、鈴木志郎康両氏との鼎談が企画されたほか、銀山温泉にも足を伸ばしている。メカスの見た日本の風景、日本の友人たちとの語らい。儚く、一瞬にして消えてしまう情景が、ダリウス・ナウヨカイティスのパーカッションとシンクロし、メカスにとっての日常がスクリーンに立ち上がる。
『メカスの難民日記』I Had Nowhere to Go
監督:ダグラス・ゴードン/ドイツ/2016/100分
映画作家ジョナス・メカス(1922-2019)は、ドイツによるリトアニア占領から逃れようとした際にナチスに捕まり、ハンブルク郊外の強制労働収容所に収容される。その後、逃亡し難民キャンプを転々としながら、1949年にアメリカへ亡命する。本作は、故郷を追われ、根無し草となったメカスの「日記」であると同時に、戦争の惨禍が生み出した、難民そして亡命者の記録でもある。メカスと長年親交のあったダグラス・ゴードンは、本人による『メカスの難民日記』(みすず書房、2011年)の断片的な朗読を作品の大半を占める黒い画面の上に重ね、時空間を切り替えながらその人生を再構築する。
『パウロ・ブランコに会いたい』Two, Three Times Branco: A Ledgend’s Producer
監督、編集:ボリス・ニコ/フランス、ポルトガル/2018/110分
1981年、映画批評家セルジュ・ダネーは、マノエル・ド・オリヴェイラ監督の撮影現場を見学するためにリスボンを訪れる。ダネーが記すように、この時代のポルトガルは、映画の「中心地ではないが、一時的に磁力を持った極」をなしており、ラウル・ルイス、ヴェンダース、クレイマー、モンテイロなど、多彩な映画作家が集まり、数多くの作品が生み出され海外へ紹介されていった。その只中で彼らの作品を製作していたのは、若き日のパウロ・ブランコだった。35年の月日が経った。リスボンとパリを行き来し、経済的な成功と破綻を繰り返しながら「伝説のプロデューサー」となった男に会うために、現在からあの時代へと遡るために、新しい世代のドキュメンタリストがダネーのテキストに導かれつつポルトガルへ旅立つ。
『さらばわが愛、北朝鮮』Goodbye My Love, North Korea
監督:キム・ソヨン/韓国/2017/80分
YIDFF 2001アジア千波万波で上映された『居留―南の女』のキム・ソヨン監督(監督名ソハとしてクレジット)による作品。朝鮮人集団移住者を取材した「亡命三部作」の完結編。建国して間もない時期に、モスクワの映画学校で学ぶために北朝鮮を離れた人びとがいた。「モスクワの8人」として知られている彼らは、キム・イルソンの偶像化を批判し、約束された将来を捨てて1958年にソビエトへ亡命した。生き残ったメンバーである、撮影監督のキム・ジョンフンと映画監督のチェ・クッキン、作家のハン・デヨンの未亡人となったロシア人の妻へのインタヴューを通して、異国での生活、芸術家としての活動、彼らの信念が語られる。「生まれたところを故郷と呼ぶが、死に場所を何と呼ぶのか」という作品の問いは、望郷の念と未来への決断とに引き裂かれたディアスポラの過酷な運命を浮かび上がらせる。
『声なき炎』Mute Fire
監督、脚本、編集:フェデリコ・アテオルトゥア・アルテアガ/コロンビア/2019/85分
1906年3月6日、コロンビアのラファエル・レジェス大統領暗殺未遂の罪により、4人の男たちが銃殺刑に処せられた。椅子にくくりつけられ放置された死体を眺める群衆をとらえた写真。のちにこのイメージは、事件を描いた劇映画にクーデターの失敗として用いられ、独裁権力を強化することに与するだろう。コロンビアの映画史はここから始まり、ラテンアメリカにおける映画は、つねに暴力の歴史と結びついてきたと本作は問題を提起する。映像における改ざん、捏造、プロパガンダ。それは、個人の記憶とも無縁ではない。自分の母親が話すことを突然やめたのは何故なのか。彼女の残したホーム・ビデオを手掛かりに、大文字の歴史に巻き込まれ、犠牲となった人びとの傷、押し潰された声なき声が顕在化する。
『イサドラの子どもたち』Isadora’s Children
監督:ダミアン・マニヴェル/フランス、韓国/84分
伝説の舞踏家として名高いイサドラ・ダンカン(1878-1927)は、1913年4月にふたりの子どもを亡くした後、「Mother」と題された別れのソロを創作する。子どもが旅立つ最後の瞬間に、優しさが極限にまで高められ、母親はわが子を抱きしめる。1世紀を経て、4人の女性が胸の張り裂けるようなダンスと向き合う。ダミアン・マニヴェルが初めてダンスそのものに取り組んだ本作は、ロカルノ国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した。
『ある夏の記録』Chronicle of a Summer
監督:ジャン・ルーシュ、エドガール・モラン/フランス/1961/86分
パリ、1960年夏。街へ出たカメラは、様々な人びとを切り取っていく。工場労働者、会社員、芸術家、学生、黒人移民─世代も生活環境も異なる人びと。「あなたは幸せですか?」という質問が投げかけられ、愛、仕事、余暇、人種問題について取材が重ねられていく。作品の後半、インタヴューとして撮られた映像について、被写体となった人びとが集められ、議論を交わす。カメラの存在を意識するのかしないのか、映画に映し出された姿は真実(cinéma vérité)なのか、それはあくまでも演技(cinéma mensonge)でしかないのか。撮影対象に積極的に関わることにより、映画の持つ作為的な要素や政治性が明らかなものとなり、概念としての「リアル」と「フィクション」が問い直される。ルーシュとモランの共同監督による、軽量の16ミリカメラと録音機で撮影されたシネマ・ヴェリテの代表作。のちにヨリス・イヴェンス夫人となり、ドキュメンタリー映画作家となるマルセリーヌ・ロリダン(1928-2018)がインタヴュアーとして重要な役割を演じている。
『ある夏のリメイク』Remake of a Summer
監督、撮影:マガリ・ブラガール、セヴリーヌ・アンジョルラス/フランス/2016/96分
本作は、ジャン・ルーシュとエドガール・モランによる『ある夏の記録』の現代版リメイクである。「あなたは幸せですか?」─オリジナルから50年の月日を経て、ふたりの若い女性監督が、夏の間パリとその郊外で同じ質問を投げかける。人びとはどのように返答するのか、時代が変われば答えも変わるのか。生についての問いかけは、フランス社会のポートレイトであると同時に、手法としてのシネマ・ヴェリテの意義を今日において見直す試みとなるだろう。
『木々について語ること~トーキング・アバウト・ツリーズ』Talking About Trees
監督、脚本、撮影:スハイブ・ガスメルバリ/フランス、スーダン、ドイツ、チャド、カタール/2019/94分
1960~70年代に民主主義と自国の映画史を築くことへの期待を胸に、スーダン国外で映画制作を学んだ男たち。故郷へ戻った彼らは、長年放置されていた屋外の映画館を再活用することに奔走するが、行政からの許可は下りない。スピーチの声は、礼拝を呼びかけるアザーンによってかき消されてしまう。本作は、喪失を生きる人間と映画史の物語である。度重なる軍事政権やクーデターに翻弄され、疲弊する人びと。暗闇のなかで『サンセット大通り』(1950)の最後の場面を再現する4人の老夫たちの身振りは、映画的な遊戯となる一方で、どこか空虚なものに見えるかもしれない。だが、独裁政権下の沈黙を批判するブレヒトの詩に由来する題名が象徴するように、巡回上映を続ける彼らのスクリーンには、愛と誇りに満ちたアフリカ映画への夢が寡黙かつ雄弁に映し出されるだろう。
『あの店長』The Master
監督:ナワポン・タムロンラタナリット/タイ/2014/80分
かつてバンコクのマーケットの一角に実在した、海賊ビデオ店。タイで手に入れることの困難だった古今東西の「アート系作品」を数多く取り揃え、シネフィルたちの欲望に応え続けたこの店舗では、字幕やパッケージだけでなく、作品解説までもが自前で制作されていた。1990年代後半から2000年代前半にかけて、タイ映画のニュー・ウェーブの誕生を準備したともいえる伝説的な場所について、常連客だった映画監督、脚本家、批評家たちが語る。彼らの情熱的な言葉から、映画への愛と不法コピーをめぐる問題が浮かび上がる。多様なインタヴュー、エピソードをモザイク状に組み立てあげ、ひとつの実体を多角的な視点から描くその手法は、同監督の『36のシーン』(2012)から『BNK48:Girls Donʼt Cry』(2018)に至るまで一貫するものだといえるだろう。
『チャック・ノリス vs 共産主義』Chuck Norris vs Communism
監督、脚本:イリンカ・カルガレアヌ/イギリス、ルーマニア、ドイツ/2015/81分
1980年代の冷戦期、チャウシェスク独裁政権下のルーマニア。検閲によって西側の情報や映像が生活のなかに入ってくることはほとんどなく、テレビでは自国の退屈なプロパガンダしか放映されていない。人びとは旅行を制限され、秘密警察による監視を恐れている。そのような状況のなかで権力への抵抗ともなったのが、地下流通するハリウッド映画のVHSテープであり、チャック・ノリスであり、ロッキーだった。警備員を買収し国境で受け渡されるVHS、謎の闇業者、自由な世界を象徴する吹き替えの女性の声。本作では、当時を振り返る人びとのインタヴューに再現映像を織り交ぜながら、ルーマニア人たちが映画に憧れ、物語を渇望していた時代を描き出す。
『革命の花―ヴェトナム・ローズの日記』People Power Bombshell: The Diary of Vietnam Rose
監督、編集:ジョン・トレス/フィリピン/2016/89分
1986年、ピープル・パワー革命(エドゥサ革命)と期を同じくして、フィリピンの映画監督セルソ・アドヴェント・カスティーヨ(1943-2012)は、マニラ南部に位置する島で撮影を開始する。カスティーヨはホラー、サスペンス、アクションといった様々なジャンルの作品を手がけたことで知られるが、1970年代初頭には、道徳的な教訓を込めたソフト・ポルノ「Bomba Films」を数多く制作している。将来を嘱望されたセクシー女優、リズ・アリンドガンを起用した映画は、ヴェトナム戦争から逃れた漁師の家族の物語を描くはずだったが、予算の問題から撮影の中断を余儀なくされる。それから30年の月日を経て、ジョン・トレスは、残された『The Diary of Vietnam Rose(ヴェトナム・ローズの日記)』のフッテージを活用し、存命する当時のキャストの参加を得て、新たに撮影・録音された素材をミックスして未完の作品を完成させる。映画の夢と政治の夢、人びとの記憶がフィルムの上で交差する。
『ショウマン』Showman
監督、撮影、製作:アルバート・メイズルス、デヴィッド・メイズルス/アメリカ/1963/53分
メイズルス兄弟初期の代表作のひとつ。独立系の映画プロデューサーとして知られたジョゼフ・E・レヴィンの肖像。ボストンのスラム街で育ち、小さな配給業者としてそのキャリアをスタートしたレヴィンは、派手な宣伝手法によって興行的な成功を収め、製作した『ふたりの女』(1960)では、ソフィア・ローレンがアカデミー賞の主演女優賞を受賞している。メイズルス兄弟のカメラは、日々映画を売り続ける男の姿を本人に意識されることなくとらえ、女優たちに囲まれた生活、幼少期の友人との会合、芸術と商品をめぐるデヴィッド・サスキンドとの対話が映し出される。本作はレヴィンによって劇場での公開を禁止された。
『マーロン・ブランドに会う』Meet Marlon Brando
監督、撮影:アルバート・メイズルス、デヴィッド・メイズルス/アメリカ/1966/29分
主演作の公開を控えたマーロン・ブランドに対するジャーナリストたちの取材。自作の宣伝に一切関心のないブランドは、つねに笑みをたたえながらもウィットや皮肉で返答し、まともに取り合わない。反対に、記者に対して質問を投げかけ、人種問題に話が及ぶとたまたま通り掛かった女性を議論に参加させてしまう。インタヴューという行為を通じて、メイズルス兄弟はひとりの俳優がいかにして商品になるのか、そしてどのようにそれに抗うのかを考察すると同時に、人間にとって演じることで生み出される多様な相貌の豊かさをフィルムに記録する。
『アンジェラの日記―我ら二人の映画作家』Angela’s Diaries: Two Filmmakers
監督、製作:イェルヴァン・ジャニキアン、アンジェラ・リッチ・ルッキ/イタリア/2018/125分
40年以上にわたり、ふたりで映画制作に取り組んできたイェルヴァン・ジャニキアンとアンジェラ・リッチ・ルッキ。2018年2月、リッチ・ルッキが亡くなった後に、その日記を読み返すジャニキアン。彼女は、毎日のように小さなノートに日記をつけていた。文章と添えられたイラスト。内容は、公的な出来事から私事、ミーティングや読んだ本に至るまで、すべてが記録されていた。ロシア、イラン、アルメニアへの旅。映画を通じて出会った人びと。作品の上映、観客の反応。日記のテキスト、イメージに彼らの日常を記録した8ミリフィルム、ビデオのフッテージが加わる。編み直された彼らの個人的な歴史にその創作スタイルが重なり、妥協することのない芸術への姿勢、人生に対する愛が刻まれる。