『自画像:47KMのおとぎ話』監督:章梦奇(ジャン・モンチー)
山本佳奈子
おとぎ話とは空想の物語のことであり、現実の記録ではない。この作品は、現実を投影するはずのドキュメンタリー映画でありながら、現実と相反するとも言える「おとぎ話」をテーマに置く。ではこの作品が映すものは、ドキュメンタリーで捉えられるべき現実なのか、それとも空想なのか。
北京を拠点とする映画作家で振付家の章夢奇(ジャン・モンチー)が10年間撮り続ける、中国のとある田舎の農村。彼女は、親戚たちが住むこの村に「47KM」という名前を付け、そこを舞台に映画『自画像』シリーズをこれまでに8本制作してきた。
9本目となる今作の中で章夢奇は、47KMに家を建てたいと話す。殺風景な平原の向こうに見える丘に、青い家を建てるという。その家には、庭があり、野菜畑があり、踊りの舞台があり、図書室もある。庭には椅子とテーブルを置き、村の人たちが集まる公共のスペースになるのだ、と。彼女は、このまるでおとぎ話のような夢を、47KMに住む親戚の子供たちに伝え、その家の絵を描いてもらう。まだ学校にあがっていない小さな子供、小学生、中学生(あるいは高校生も)、さまざまな年代の子供たちは、真冬の枯れ草で覆われたその丘に集まる。自らの希望も加えながら、青い家の完成図を想像し、画用紙に家と庭を描く。子供たちが熱心に描く絵は、色彩に乏しい真冬の枯れ草の上にあってもカラフルで、想像力に富んでいて、大人である我々が子供たちからおとぎ話を聞かせてもらっているような、楽しい情景だ。
青い家こそがこの映画のテーマであるおとぎ話なのかと思いきや、なんと、映画の中盤では、実際に建築工事が始まる。作業員たちが黙々と真剣な顔で建築作業を進め、レンガが積み上がり壁となっていく。子供たちは、寡黙な作業員たちの周囲でニヤニヤとしていて、おとぎ話の実現にほくそ笑むかのようだ。同じ画面に映る作業員と子供の、表情のギャップが面白い。
章夢奇が子供たちに語る青い家は、おとぎ話から現実に変化した。マジックのような展開の裏には、村の大人たちとの対話や、経済的な準備が必要だったことが推測できる。彼女の行動力に感嘆するとともに、おとぎ話を真剣に紡ぐことは、現実を変える力になりうるのではないかと考えさせられる。
映画全編に満ちた幻想的なおとぎ話の雰囲気に時おり冷気を吹き込むように、子供たちの祖母や祖父、大人たちは、子供に向かって現実を突きつける。子供の母親が出稼ぎに行ってしまったこと。大学に行くまであと何年かかるのか。学校にはきれいな服を着て行くようにという注意。おとぎ話の中に、このような厳しい現実が挟まれるのだが、それらの現実がなければおとぎ話は引き立たない。映画は現実とおとぎ話の世界を行ったり来たりして、どちらの世界に自分の視点を置くべきか、観客は迷子になりかける。しかし、最年長で16歳の女の子・方紅(ファン・ホン)が、抜群のバランス感覚で私たち観客をガイドしてくれる。今、大人と子供の狭間にいる方紅は、あるシーンでは現実を見据えた冷淡な言葉を放つこともあれば、別のシーンでは年少の子供たちと戯れ合う。もう10年間も彼女を撮り続けている章夢奇が、彼女をこのおとぎ話の大役に抜擢するのは当然だ。頼れるガイドである方紅は、章夢奇に手渡されたハンディカメラを手に、自身のおとぎ話の世界にも私たちを案内してくれる。
ただし、終盤に登場する夜の暗闇は、私たちを困惑させる。真っ暗闇のなか鶏を追いかけ回す大人たちを撮ったシーン。同じく真っ暗闇の建築途中の家で、過去の47KMでの映像を投影しながらそれに重なるようにして女の子たちが踊るシーン。突如挟まれたこれらの暗闇は、現実離れしている幻覚のようにも見えた。今見ているものは、おとぎ話なのか現実なのか。この場面に方紅のガイドはなく、私たち観客は、暗闇で路頭に迷うかのごとく右往左往してしまう。そして、白昼のシーンに戻ったとき、夢から覚めて再び現実に戻ってきた感覚を得る。
このように世界を行き来するうちに、おとぎ話と現実の違いなんて、そう大きなものではないのではないかと感じさせられる。大人が子供のために創作し、話し聞かせるおとぎ話は、現実に着想を得ている。どこからどこまでが現実で、どこからが作り話か? その境界は、作り手で話し手である大人にとっても時に曖昧だ。むしろ曖昧である方が、楽しめる。
おとぎ話と現実のあいだで迷子になる楽しさを味わえる、奇妙で幻想的な作品だ。そして、映画が終わる頃には、この青い家が本当に完成したのかどうかなんて、どうでもよくなってしまう。空想か現実か。どちらにいるのもいいじゃないかと、爽快さが残るのだ。