四角い青い家から小学校高学年くらいの女の子たちが出てきて、画面の外に散っていく。そのなかのひとりが、こちらへ歩いてくる。若い大人の女性がやはり家の方から駆けてきて、据え置きのカメラの後ろに回る。地面に置かれた椅子にちょこんと座った少女は、その女性を親しげに「お姉ちゃん」と呼び、お姉ちゃんはカジュアルに少女にインタビューを始める。「新型コロナ」というウィルスで新学期の始業式が遅れたことを、少女は喜んでいる。
他の少女やもっと小さな男の子たちもやってきては、慣れた様子でひとりずつカメラの前に座る。「そのニュースをどこで知ったの?」「ウィルスの形って知ってる?」。先ほどと同じような質問が投げられる。インタビューはどれも長回しで、恥ずかしがる気配もなく皆が質問に答え、それぞれのペースで好きに体を動かしてウィルスの形を表現する。ユーモラスで賢く、子どもらしい答えやジェスチャーだ。ひとりの子の答えから、後ろの青い家が「お姉ちゃん」の家だということがわかる。
最後に登場するのは7〜8歳に見える小柄で斜視気味の元気な女の子で、内緒のことを教えてあげると言ってカメラの後ろに回るので、画面に映るものは再び青い家とその前の大きな木だけになる。「中国が最初の感染国なんだよ」とその子がお姉ちゃんにささやくオフの声が聞こえる。深刻なことだから内緒なのだという。「聞いた人たちは、きっと不安になる。武漢に来る人や出る人は、きっと嫌われる」。こんな小さな女の子が、中国を見る世界の目に気づいていて、しかも見ず知らずの人を思いやる気持ちでいることにハッとし、心をつかまれる。暗転して、映画のタイトルが現れる。
この長い冒頭シーンの役割は大きい。四角い青い家を強く印象づけ、「47KM(キロメートル)」村と監督が呼ぶ村での、ゆるやかな時の流れと映画の時間がすり合わされる。また、カメラを介して子どもたちを同じ目線から見て、その声にきちんと耳を傾ける監督の姿勢と、双方の間に流れる親しい気持ちと信頼感を感じさせてくれる。
その後の約3時間、彼らの家族であろう大人たちも多数登場し、わたしたちは村の面々のことを少しずつ知っていくのだが、立春から大寒までの二十四節気を章に見立てて描かれる農村の一年と農作業の工程は興味深く、飽きることがない。
一年の農作業と並行して、青い家もまた村民のニーズに合わせて姿を変えていく。引っ越したばかりの家に、少女たちと監督が本を並べ、黒いゴムマットを敷く。舞踊振付家でもある監督の指導のもと、老若男女がダンスや即興の身体表現ムーブメントを学ぶ。男たちが機械で土を掘って家の前にデッキを作り、そこで皆がボール遊びをする。秋がくるとゴムマットに絨毯が敷かれ、家の前に置かれた卓球台で中学生たちが遊ぶ。冬にはついに横文字も入った木彫りの看板が家の前に立てられる。それは本当に「青い家(Blue House)」という名前で、英字の凹凸を指でなぞったり、「読めないよ」と言っている村民たちの様子から、監督が外から来た存在で、小さな山村に都会の息吹を運び込む存在であることが読み取れる。
本作は、章梦奇(ジャン・モンチー)監督の『自画像:47KM』シリーズの10作目だが、これまでと違うのは、題名にもなっている「2020年」が、監督にとって特別な年であったことだ。その年はパンデミックの年だったと同時に、彼女がついに父親の故郷であり10年間描いてきた中国中東部の「47KM」村に移住を決め村民になった年でもあった。調べてみたら、山間部だが武漢と同じ湖北省にあるらしい。結果として、仕事で街に出ることもなくなり、農作業を記録しながら村の生活をゆっくり観察する作品になった。農村では、コロナ禍でも作業は変わらない。前作までは村の人たちを被写体として捉え、子どもと老人ばかりの農村の苦労を描いてきたが、今作では同じ村民として彼らの「体に刻み込まれた知恵」を知れて、深い敬意が生まれた、と彼女は語っている。
この知恵は、体が覚えている地域の文化的知識で、村民たちの動きを見ていると、風景の中で彼らが踊っているように見えてくる。ベリーショートの白髪を汗に濡らし、日に焼けた笑顔で桃を収穫するおばさんの手の素早い動き、彼女が何気なく枝にかけた足の角度。長いハシゴを白樺の木にかけて登り、幹を抱いてさらに上へと慎重に登っては止まり、枝を落とすおじさんの体の形。夜間にカンテラを灯して行う村の共同作業では、人やシャベルの動きが振付のように見えてくる。田植えなどの機械を使う作業では、機械もまたダンサーになり、その音がリズムを刻む。稲の種植え作業では、穴のあいた育苗コンテナに良質の土と肥料と種が順に丁寧に撒かれ、ひび割れた「黄色い大地」にびっしり並べられる。灌漑水路の門が開かれると、水が画面の上と下から現れ、ゆっくりと大地に染み渡っていく。ここでのダンサーは水だ。作品全体が、マヤ・デレンが言うところのフィルムダンス、しかも、大きなひと続きの集合体(コレクティブ)ダンスに思えてくる。
日常の風景は手持ちカメラで撮影され、女たちのおしゃべりと農作業着のビビットな暖色が画面から飛び出してきそうな勢いだが、そこに時折、据え置き撮影のゆったりとした映像が挿入される。こうした長いシーンでは、ショットサイズが段階的にワイドに切り替えられるのが特徴的で、そのつなぎ目に、村のフィルムダンスに添える制作者の思いが織り込まれているように感じられる。
たとえば、先に少し触れた白樺のシーンでは、縦に伸びる木が画面に3本収まる大きさのショットから、だんだんとカメラが後ろに引かれ、ついには十数本の木が並ぶ白樺林が現れる。そのなかの1本の上の方に、小さく小さく、おじさんは見え、縄もなく、枝に足を委ねて耐えている。作業を取り囲む自然が大きな舞台装置で、ダンサーたちはそのなかで、さまざまに身体を動かしながら生活を営む。ズームではなくサイズの違うショットをつなぎ、各ショットを呼応させることで、生き物と風景との関係性や共生の仕組み、またそれへの畏敬の念がだんだんと明らかになる。ショット同士が共鳴し、ダンスをする。そしてそれが、村の呼吸、映画の呼吸になる。
ラストシーンまでの一連のつなぎでは、集合体フィルムダンスとショットダンスが組み合わされ、あざやかなクライマックスになっている。まずは小さな女の子と男の子が、青い家に置かれたシンセサイザーで即興演奏を楽しんでいる。その音だけを背景に残しながら、画面には、収穫を終えて水が抜かれ、おそらく二期作用に新たに耕されたばかりの黒々とした田んぼと、それを囲む風景が現れる。田んぼには、わたしたちにはすでに見覚えのある白い犬が一匹横たわっている。死んでいるのかと少しドキリとするが、時が流れ即興音楽も消えた頃、犬の耳が動く。柔らかな土を抜け目なく見つけて、昼寝しにきたのだろう。全編を通して絵的にも音的にも存在感があったニワトリや野鳥たちの声が聞こえている。
この長回しのラストシーンは、心に残る。ここでも、最後にもう一度ワイドにカメラが引かれ、緑の森に囲まれて広がる平らな大地が見えると、耕された四角い田畑が、稲の育苗箱や四角い青い家と同様、ヒトを支える長方形のコンテナに見えてくる。さらに時間が流れた後、今では小さく見える犬が無心に後ろ足で体を掻く。犬は踊っている。それからしばらく、鳥たちの声以外は絵画のように風景が止まったかと思った頃、犬がひとつ伸びをして、四角い田畑とそれを囲む丸みのある森の真ん中で、また昼寝に戻る。山、森、動物、ヒト、水、機械などのすべてが47KMという名の村をつくり、先祖の大地に戻ってきた監督は、自分もカメラもその一部になった喜びを、この作品で生き生きと表現しているような気がした。
(タハラレイコ)