アイン・ヘルワ難民キャンプに暮らすアブ・イヤドの服装をめぐり、ささやかな騒動が持ち上がる。彼の青いTシャツにプリントされた文字を友人であるらしき雑貨屋の店主が見咎め、それはヘブライ語であると主張、お前はいつからユダヤ人の手先になったのか、とイヤドに銃を突きつけるのだ。もちろん冗談である。だけど、何しろこの地では多くの男性が銃を所有しているので、それが本物なのか玩具なのか定かでなく、イヤドは苦笑い混じりにカメラを振り返るが、撮影中の映画作家の側でもその文字がヘブライ語や英語ではないと分かる程度で、中国語ではないか……と曖昧に答えるにとどまる。ここは日本人観客であることの特権を行使すべきだろう。その文字の連なりは「ウルトラマン7」と読めるのだ。日本で一九六〇年代末に放映された特撮テレビ番組のヒーローの名前(?)をプリントしたTシャツが、いったいどういう経路でレバノンのパレスチナ人難民キャンプに持ちこまれ、なぜイヤドはそれを選んだのか……。しかし、その文字が本作の観客の視線を惹きつけるのは、どこまでも無意味な暗号であり続けるからであり、僕らにとっても、それが滑稽なまでに無意味な言葉である点に変わりないのだ。
毎年のようにヨーロッパから里帰りを繰り返す映画作家は、父親が撮った映像も交えて難民キャンプにおける十年以上もの歳月を一本の映画に仕立て上げ、僕らはそこに勇敢さや逞しさを称えるマチスモ神話の終焉を見届ける。男たちが不可思議なまでに――彼らの代表チームが出場するわけでもないのに――熱狂するサッカーのワールドカップや映画館で上映されるカンフー映画、そして何よりもパレスチナ解放を目指す武装闘争……。イヤドもかつてPLOの戦闘的なメンバーだったし、映画作家の叔父に当たるサイードの亡き兄は“パレスチナのランボー”ともいうべき解放闘争の英雄だった。しかし、そうしたマチスモの栄光が今や音を立てて崩壊しつつあり、難民たちのより本質的な規定としての“待機すること”が前面化する。自宅前の路地で、サッカーに興じる子どもたちをゴキブリのように追い払い続ける映画作家の祖父は知っているのだ。戦いの熱狂が幻影のように立ち消えた後に、自分たち難民がひたすら待機する存在であるという事実だけが残されることを……。
難民がかつて追われた故郷への帰還を望み、ヨーロッパ在住の映画作家が引き裂かれたアイデンティティの回復を求めて少年時代をすごしたキャンプでカメラを回す……。なるほど、それらは真摯で切実な願いや動機であり、映画に説得力を添えるが、他方で音楽の選択や全体の構成も含め、これは、あまりにもすべてが正しく意味=方向づけされすぎた映画ではないか……との疑問も頭をもたげる。だからこそ、僕らは映画作家とともに「ウルトラマン7」の無意味さに惹かれるのだ。イヤドは無意味=方向性(nonsense)を背負って市場や路地を彷徨い、カメラもそんな彼の背中を追い続ける。長すぎた帰還への待機は、いつしか帰ることの意味そのものを蒸発せしめ、ただ待つために待つといった同語反復的で空虚な状況が支配的となる。しかしそれでもカメラは、そんな無意味さや空虚さを画面に刻み、解放にまつわるマチスモ神話の先を見据えるべく苦い前進を重ねる。
北小路隆志(映画批評、京都造形芸術大学)