「ドキュメンタリーとフィクションの境は?」、「フィクションの要素が含まれていてもドキュメンタリーと呼べるのか?」など以前からよくいわれている疑問だが、そのことを論じること自体野暮なことのように思えるほど、最近ますます両者の境界は曖昧になっていると思う。一つの作品にドキュメンタリーとフィクションが共存していたり、ドキュメンタリータッチのフィクションであったり、形態は様々である。この作品も、上映後の監督のトークを聴いて、一部脚本が作られ、役の設定をして人に演じさせていたとわかるが、観た限りでは純粋にドキュメンタリーと思える。

この作品で監督が表現したかったものは、「空間の中の人の流れ」だという。舞台はパレスティナ自治区の都市、エルサレムの北10kmに位置するラマラで毎年開催される「パレスティナ音楽祭」の準備風景。カメラは三脚で固定され、ズームやパンもほとんどない。特定の人物を追わない。その分一つのシーンが舞台を観ているようになり、画面の横から現れては消えるなど、人びとの動くさまが強調される。楽屋での人の出入り、客席で椅子を並べる様子、受付の準備、ステージ上で念入りに立ち位置を決めて印を付ける舞台監督。

あくまで映し出されるのは準備風景である。肝心の音楽祭の様子は、エンドロールで音声が流れるのみ。貴重なアラブ音楽の演奏をきちんと観ることができないのは惜しい気もするが、リハーサル風景で観ることができる。アラブ音楽の代表的な三種の楽器ウード、カーヌーン、ナーイ(それぞれ日本でいう琵琶、琴、尺八に近い)の音色も楽しめる。楽屋で衣装係がPCから流しているのは、アラブの国々で愛されるレバノンの女性歌手「ファイルーズ」。ベテランの歌手であるが、衣装係のような若い女性や、その時楽屋に入ってきた若い男性からも好かれる存在とわかる。ステージで準備する男性に、写真を撮ってよいかと話しかけるのは、エジプトなまりのアラビア語を話す日本人女性。上手に話す様子に感心した男性は「アラビア語って日本ではマイナーなの?」と質問し、会話も弾む。パレスティナはアラブに属するのだと改めて実感させられる。

監督は、パレスティナの今まで知られなかった一面を映し出したかったそうだ。そのことと、準備風景や空間の流れにこだわることは必ずしもイコールのように思えないが、監督の芸術的な視点と、新たな表現方法を試みる心意気を感じた。また、よく見受けられるイスラエルとの関係性から語られるパレスティナ像からも距離を置く。イスラエルのことは、インタビューを受けた年配女性の「イスラエル軍の兵隊は、頭が変になるくらい家のドアを叩いた」との発言、音楽祭にミュージシャンを招待する際にイスラエルが横やりを入れてきたエピソードくらいしか出てこない。

パレスティナ人は エルサレム旧市街への立入を禁止されている。パレスティナを代表する詩人マフムード・ダルウィーシュの墓碑は、故人の願いにより、エルサレムを見渡せる場所にある。取材をするジャーナリズム専攻の学生とテレビ局レポーターの会話で、学生は詩を書くことも好きだと語っていた。取材し記事を書くことと詩を書くこととの違いについて、前者は物事を限定して突き詰め、後者は小さなことからいくらでも世界を広げることができる、と。この言葉に喚起されるかのように、夕暮れ時の街を見渡す作品中ほぼ唯一のパンニングの風景ショットで映画は締めくくられる。ダルウィーシュの詩にある「この2メートルの土地で」を広々とした世界へと押し広げるかのように。