《絶望を走り抜ける―『トトと二人の姉』》
絶望を生き抜くためには、二つ方法がある。ひとつは、自分を失い我を忘れること。そしてもうひとつは、絶望に気付いていないふりをすることである。再出発をするの、ドラッグはもう辞める、と言いながら17歳の姉が家を隅々まで掃除しているシーンから始まるこの映画は、始まるとすぐに、彼女の言葉が、かつて彼女によって既に言われ尽くされたセリフに過ぎないと私たちは思い知らされる。
母は薬物売買で服役中、父はいないため、保護者が不在となった家は不良たちのたまり場となり不潔な環境のなかドラッグが蔓延している。ルーマニアの郊外らしきスラム街の団地を舞台としたこの映画ではしじゅう不穏な空気が漂っており、気でも狂ってしまいそうな生活において、取り残された17歳と15歳の姉、そして10歳の男の子は、毎日を生きている。彼らはまるで繊細でいることを一瞬たりとも許されない、図太くならなければここを生き抜くことが不可能であることの証明のように、自分を守りながら生きていく術を身につける。10歳の男の子トトは何も知らない、或いは知らないふりをすることで自分を守っている。17歳の長女アナは、自らを失うための重要な作業であるかのように、薬物を日常的に摂取している。そして15歳の次女アンドレアは、この劇中で唯一の考える人として存在する。なぜなら彼女は、知らないふりを決め込めるほど若くはなく、なおかつ自らを完全に失うには、あまりにも若すぎるからだ。彼女はなんとか家族の、自分自身の、人生をきちんと立て直そうとひとりぼっちで悩んでいる。
極端なローアングルで撮影されたカメラワーク、そして15歳の少女アンドレア自身がビデオカメラを持って周りに映像を向けたものが時おり挿入されることによって、映画は私たち観客の身体にぴたりと寄り添う。知らない人、或いは知らないふりをしている存在として劇中に登場するトトと同じ目線のカメラは、その場所で起きている痛みと悲しみが、彼の目線を通して、まだ何も知らされていない観客である私たちの身体に憑依する。
悩むということ、絶望から立ち直ろうと努力する行為はとてつもなくしんどいし、傷つく行為だ。これからやってくるだろう、或いはやってこないだろう人生について考えながら泣いている15歳のアンドレアに向かって、児童クラブの職員は励ましながら語りかける。「自分を憐れんでいるの?クヨクヨしないで、人生は戦いよ」こんな言葉を発することができる人間は、真の絶望を知らない人だけだ。人によって、痛みと、絶望の感じ方は違うというのに。しかし、アンドレアは自分が狂うことの誘惑に負けず、なんとか立ち止まる。そして彼女自らがカメラを持ち、孤児院にいる他の子供たちの境遇を聞いてみたり、10歳のトトと一緒になって無邪気にケラケラと遊び回ってみせるのだ。その人間の底力的な強さと、繊細さに耐えうる心が存在するという事実に、私たちは圧倒的に胸を打たれずにはいられない。この世には、絶望をしたことがある人間ならわかることがある。そして絶望をしたことがない人間には、完全に理解のできないことが存在しているのだ。これは、絶望とともに過去を過ごさなければ生きてこられなかった側の味方に位置する映画なのである。(石原海)