『桜の樹の下 Under the Cherry Tree

15pj04

「もう死にたい。生きていても仕方がない。早くお迎えに来て欲しい」

私が高齢者福祉の仕事をしていた十年余りの間に、もっとも耳にした言葉だ。そして決して慣れることのできない言葉でもあった。

死にたいという高齢者の訴えを「かまって欲しいだけ」と受け取る人もいるが、そうではない。彼らの生きた時代は激動だった。がむしゃらになって日本という国を作ってきた。そんな自分が老いて弱者となっていることがやりきれない。意味を見出せず死を待つだけの日々が耐え難い。

「生きていても仕方がない」の裏には、「自分だって捨てたもんじゃない、そう感じたいんだよ」という囁きが隠れている。

『桜の樹の下』というドキュメンタリー映画を撮った20代後半の監督:田中圭さんは、高齢者の深いところから漏れてくる声を聞き取ったのだと思う。

神奈川県川崎市の野川西団地。田中監督はその市営住宅に、他の団地とは違うものを感じた。彼女は自分が惹かれたものの正体を「旺盛な生のエネルギー」と書いている。そして市営住宅に住む4名の高齢者の日常にカメラを持ち込み、生活だけでなく、彼らの思い、人生に触れてゆく。

「自然に生まれた映画」と感じるほどに、田中さんは高齢者に程よく寄り添い、彼らに遺された短い時間の傍らで過ごし、同じ景色を観ている。被写体と相対しながらも、静かに彼らと空間を共有している。その距離感が心地よい。

「高度経済成長に伴って発展した川崎という地域性と、その落とし子ともいうべき市営住宅の現状に、日本が抱える高齢者問題を重ね……」と映画の概略を説明することは簡単だが、それはこの作品の主軸ではない。「高齢者問題はもっと多面的な深刻さを包含し、孤独死への恐怖も自死へと繋がるほど切実なのだ」と言うこともできるだろうが、田中さん自身、高齢者と直に関わる中で状況は充分に理解していると思われる。その上で世の中に出回る情報に流されていない。糊塗もしていない。

4名のうちの一人が、その市営住宅を「巣箱」と表しているのが印象的だ。そこは彼らの故郷ではなく、終の住処として選んだ場所でもなく、他に行く宛もない。自分たちは縦横に並んだ巣箱からチョコチョコと出入りをするだけの鳥だ、とでも言いたげであった。

田中さんは「巣箱の中へ監督として入ってゆくが、同じ地域の住人として手を差し伸べているような優しさが、被写体との会話や映像から溢れている。高齢者たちが嬉しそうに、また誇らしげにカメラの前で話す表情には、自分を見てくれる喜び、自分を語れる満足感がある。撮影が進むに連れて、本人たちさえ忘れかけていた自分という存在を、徐々に取り戻していくかのようだ。

それは福祉職として携わっていた自分には難しいことだった。生活を改善する支援はできても、人の存在を変える支援など意図的にできるものではない。

ドキュメンタリー映画とは何かを記録する自己表現だ、と思い込んでいた私にとって、撮られることで自分を表現した4名の姿は新鮮であり、「お年寄り」とは思えないほど初々しく感じられた。

見終わった時、映画にはない場面が浮かんできた。桜の樹の下に登場人物がバラバラに立ち笑っているのだ。「ありがとね……」。声にならない言葉は監督への感謝なのだろう。彼らの人生のラストステージは、この1本の映画によって確かに変わったのである。(佐藤聖子)