《車窓風景とドキュメンタリーにおけるドラマ性―ドリームキャッチャー》
シカゴで性暴力を受けた女性を支援する「ドリームキャッチャー・ファウンデーション」というボランティア団体がある。そこで働くブレンダという女性を中心に映画は展開していく。かつては彼女自身が売春をしており、他の女の子を売春に誘ってポン引きに渡したり、薬物中毒だったり、性暴力の被害にあっていたというバッググラウンドを持つ女性だ。しかし同時に、そのような過去があったようには見えないくらい陽気で、劇中では激しい洪水のように、よく笑いよく泣き、よく歌って踊っている。夜になると、彼女は売春婦が多く立っている道や危険とされている地区まで車を流して、実際に売春を生業とする女性らと対話をする。そしてこの場から足を洗いたい、しかし一歩が踏み出せないでいるひとたちを助けるために全力を尽くす。
映画のなかで、車内から撮影された風景の映像や、ブレンダ自身が運転しているシーンが何度か登場する。それはいわゆるアメリカの車窓風景に過ぎないのだが、同時に犯罪映画的でもある。ゆるやかな速度で町を徘徊する映像は、まるで彼女自身が女を買おうと物色しながら町を車でゆっくり流しているかのような、少し気味が悪いものとなっている。この幾度か挿入される車窓風景の映像や、車の動きによって、ドキュメンタリーであると同時に、ドラマ的な演出構造が立ち上がる。
ブレンダはすでに数多くの悩める女性を抱えているが、ひとりひとりに向き合い、自分の経験を交えながら、真摯に力強く女性を励ます。ではなぜ、有給でもない「ドリームキャッチャー」の仕事にここまで没頭するのか。それは、恐らく彼女自身が物語ることを誰よりも必要としているからだろう。売春をして苦しんでいる女性と会うことを通して、彼女はかつて自分が行っていたことに類似した過去を見る。過去を忘れようとすることは、自分を遠回しに否定することだ。だから、過去の痛みを受け入れて語り続けねばならない。
映画は数時間だが、映画が終わったあとでも自分のかつて手にした痛みは消えることがなく、主題は永遠に繰り返される。同じ歌を何度も歌いたいように、同じ話は何度もしたいし、同じことだって何度も書きたいし、私たちは同じことで何度も怒ったり、悲しんだりしてしまう。映画のなかで車が円状に町を巡回することは、ブレンダの過去が持つ重みの、永遠に循環される終わりのなさを表しているのだ。一度でも悲しみが起きてしまったら、それは取り返しのつかない記憶として自分の身体に蓄積されてしまう。その蓄積されたものを消すことはほとんど不可能だが、痛みとともに、同じことを繰り返しながらゆったりと変化して生きることを、この映画は肯定しているのだろう。(石原海)