戦争のなかにも平和はある――『鉱』
劇場に轟音が響きわたる。スクリーンにまで伝わるかのような機械の振動。暗く湿った空間の向こうで、労働者たちが身に着けるヘッドライトの光が絶え間なく揺れ動いている。ここはボスニアの炭鉱、地下300mの異世界だ。つねに事故の危険と隣り合わせにある坑内で、カメラは動じることなく坑夫たちの肉体を、掘削機械の運動を、いずれも淡々とした速度で捉えていく。狭く足場の悪い状況であるにもかかわらず、監督の小田香――タル・ベーラがサラエボに設立した育成プログラムに学んだ――による撮影はけっして取り乱すことがない。卓越した長回しと固定ショットの多用によって、ここではきわめて静謐な雰囲気が醸成されているのである。
それは、しばしば劇映画などで描かれる鉱山労働のイメージとはどこか異なっている。現実に炭鉱という言葉を聞くと、私たちは過酷な労働環境を想像してしまうに違いない。たしかにそれはまぎれもない事実であり、本作にもそのような実態は少なからず表出している。たとえば落盤事故で大怪我を負った仲間の話をする坑夫たちは、ふとカメラの方を向いて尋ねるだろう。「監督さん、いったいこれは誰の責任なんだ?」「いつになったら問題は改善されるんだ?」
だが、それにもかかわらず本作は社会問題を扱った映画ではない。あきらかに監督の興味はまったく別の対象に向かっているからだ。その温かい視線の先にあるのは、何よりも肉体労働の本質的な美しさであり、機械の純粋な運動性である。様々な騒音のなかに認められる「音楽」であると言ってもいいかもしれない。いわば本作は、きわめて純粋な探究心によって、坑内における激しい戦いの内奥から、一瞬の静寂を「掘り出そうと」試みる映画なのである。
この作品につけられたタイトルは「鉱」(あらがね)。あるいは、それを「荒金」と記してみるのもいいだろう。鋭く響き渡るつるはしの音や、ぼそぼそとして聞き取れない坑夫たちの話し声、無骨で怪物的な機械のフォルム。それらは、まだ精錬されておらず荒々しい鉱石の質感にも似ている。その石が監督の手によって編集され、劇場のスクリーンに映し出されるとき、私たちはそこに磨き上げられた金属が放つ、幾何学的で美しい輝きを見出すに違いない。映画によって炭鉱を描くということが、これほどまでに映画的であるという事実に、私たちはいま、はじめて気がついたのかもしれない。(村松泰聖)